Story

Episode 01

生い立ち

兄弟二人、四つ下に弟がいる家庭の長男として生まれました。

父は典型的な昭和の親父でした。言葉ではなく身体で教える厳格な人で、幼少期の私にとっては「鬼」のような存在でした。悪さをすれば容赦なく叱られ、時には家から追い出されることもありました。朝はきちんと起きる、食事は残さず食べる、野球は努力しなければ上達しない——そういった基本的なことを、厳しい教育を通じて学びました。

父自身も高校野球の経験者で、泥水をすするような時代の根性野球を経験してきた人でした。そんな父から見ると、当時の私は軟弱な子どもでした。体が細く病弱で、月に一度は必ず風邪をひくような虚弱体質。そのため、野球をやりたいと言い出した時も、「お前には無理だ」と相手にされず、最初は母親としかキャッチボールができませんでした。

Episode 02

野球との出会い

祖母とテレビで甲子園を見ていた時、横浜高校の松坂投手が活躍する姿を目の当たりにしました。この日を境に横浜高校への憧れが一気に膨れ上がりました。

小学二年生で少年野球を始めました。毎日、学校が終わると祖母の家に寄ってバットとグローブとボールを持ち、グラウンドへ向かいました。五人でも六人でも、集まった仲間で試合をします。夕方五時半の鐘が鳴ってみんなが帰った後も、家の前で壁当てを暗くなるまで続けました。それが日課でした。みるみる上達していき、小学三年の秋には四番バッターとして打席に立つまでになっていました。

バッティングが大好きで、野球にのめり込みました。やればやるほど上達し、「自分は上手いかもしれない」という自信がついていきました。小学四年生にはエースで四番。どんな球でも打てる無双状態で、「野球って簡単だ」と思えるほどでした。

小学校時代
Episode 03

中学校時代

中学に入っても野球を続けました。横浜高校への進学を目指していたため、「どうすれば横浜高校に行けるのか」を父と何度も話し合いました。中学二年の夏、塾を辞めて野球一本に絞るか、勉強と両立させて受験で高校を目指すかの選択をしました。私は野球を選びました。塾を辞め、全てを野球に捧げることを決めました。そこからクラブチームを変え、本格的に横浜高校を目指す日々が始まりました。

ピッチャーとして勝負すると決めていたので、走り込みを徹底しました。朝は海岸沿いを大磯港まで往復五キロ走り、学校が終わると湘南平という山を往復十キロ走りました。その後チームでの練習があり、夜九時に帰宅してご飯を食べて寝る——これを毎日繰り返しました。

中学三年の夏、横浜高校のセレクションを受けました。試合に出られる保証はありませんでしたが、憧れの横浜高校への入学が決まった瞬間、心からワクワクしました。

Episode 04

横浜高校時代

横浜高校での初めての練習で現実を知りました。「ここは地獄ではないか」。

野球にはそれなりに自信を持って入学しましたが、周りは県大会や全国大会どころか、世界大会やオールジャパンに出場している選手ばかり。格が違いました。走り込みをしてきたおかげでフィジカル面ではついていけましたが、技術面では圧倒的な差を感じました。それでも私はこの環境にワクワクしました。「自分より遥かに上手い選手がこんなにいる」という事実が、むしろ刺激になりました。

父にその興奮を伝えると、激しく叱られました。「お前が戦わなければいけない相手に対して『すごい』と言ってどうする。憧れていたら抜かせない。そんなことでは背番号は取れない」と。

当時、二学年上の先輩たちが選抜優勝を果たした直後で、三年生は神のような存在でした。上下関係は厳しく、挨拶や礼儀、独特のルールもありました。しかしそこで、どんな立場になっても上の世代を敬う姿勢の大切さを学びました。そして「上には必ず上がいる」という謙虚さも身につけました。自分で限界を決めてはいけない。それを強く実感した三年間でした。

結果として、背番号11番を三回いただいたのが最高成績で、公式戦のマウンドに立つことはありませんでした。それでも練習試合で負けることが許されない緊張感の中で投げた経験、そして三度の甲子園出場は、横浜高校でしか得られない貴重な財産となりました。

同期の中で特に印象深いのが土屋健二です。後にプロ野球選手となった彼は、体格、技術、態度、全てにおいて別格。私たちの代が甲子園に出場しベスト4に進むことができたのは間違いなく彼のおかげでした。

神奈川県大会から甲子園まで、投球数は累計千球を超えていました。爪は割れ、指にはタコができ、土屋は満身創痍でした。普段は弱音を吐かない土屋が「明日は多分無理だと思う。でも頑張る」と言いました。同級生の中でもほとんど話さなかった土屋と、唯一頻繁に話していた相手が私でした。その関係性が、現在の私の仕事を選ぶきっかけの一つになったと思っています。

横浜高校時代 横浜高校時代
Episode 05

大学・社会人時代

専修大学に指定校推薦で進学しました。野球を続けるという選択肢もありましたが、高校時代のコーチから「野球を続けても先がない」と言われ、野球の道を諦めることにしました。今ではその決断を後悔しています。大学時代はアルバイトと就職活動に邁進する日々でしたが、今振り返れば、もっといろいろなことを経験しておけば良かったと思います。

大学卒業後、フジパンに入社しました。面接の際、「関東で働かせてほしい」と強く希望を伝え、「ぜひ関東で働いてください」という返事をもらっていました。

入社後、パン業界の基本を学ぶため、スーパーに隣接するインストアベーカリーで一年間の修行が始まりました。パンの仕込みから発酵、焼成、販売まで一通りを経験し、商品を語れる営業マンになるための基礎を身につけました。

一年後の本配属の際、関東で働けると信じていましたが、配属先は名古屋の豊明工場でした。三十人いた同期の中で、名古屋に飛ばされたのは自分一人だけ。人事部との面談で「関東で働く約束だったはずです」と訴えましたが、「いい加減にしろ。言われたら来るんだよ」と一蹴されました。

納得できないまま名古屋へ赴任しました。約四ヶ月間工場で働いた後、営業ではなく製造部門に配属されました。工場長や理事と良好な関係を築きながら、「いつか必ず営業に」という思いで働いていた矢先、転機が訪れました。

Episode 06

介護施設時代

「今から立ち上げる老人ホームの新規事業を手伝ってほしい。給料も全額保証する。とにかく来てほしい」という知人からの誘いを受け、24歳で食品業界から介護の世界へと大きく舵を切りました。

入社したハーフセンチュリーモアは、サンシティという高齢者向け住宅を運営していました。最初は右も左もわからない老人ホームの世界でしたが、24歳という若さもあり、入居者の方々、特におばあちゃんたちに大変人気がありました。三ヶ月ほどで入居者の顔と名前、部屋番号を覚え、一年ほどで課長に昇進しました。

入社一年半後、新部署の責任者に任命されました。

認知症の初期段階では入居者本人だけでなく家族との密接な関わりが必要ですが、それを手厚くサポートできていませんでした。

元気な状態から認知症の兆候が見え始め、看取りに至るまでの一連の過程を、同じスタッフが一貫して寄り添い続ける体制を確立することが目標でした。その後三年をかけて、全国17施設全てにこの部署を展開しました。

高級老人ホームでは、建物や内装といったハード面はどこでも実現できます。しかし、入居者の状態変化に一貫して寄り添う専門部署を持つ施設はほとんどありませんでした。これは今でもサンシティの大きな付加価値となっており、それに貢献できたことは私の自負です。

この10年間で、年間約100名の看取りに立ち会いました。人は必ず死ぬということ、そして死に方を考えることの大切さを学びました。死は必ず周りの人を巻き込みます。どのように最期を迎えるかは、本人だけでなく家族にとっても重要な問題です。

施設には名だたる方々が入居されていました。皆一様におっしゃっていたのは「どれだけお金があっても、身体が弱ってからは使えない」ということでした。旅行に行きたくても楽しめない。健康寿命がいかに大切か、どれだけ稼いでも使う目的がなければ意味がない。この現実を目の当たりにした経験は、後の仕事に大きく影響しています。

介護施設時代
Episode 07

現在

2024年、横浜高校のエースピッチャーだった土屋健二と10年ぶりに再会しました。彼はプロ野球生活を終え、保険募集人として独立していました。

高校時代の土屋は寡黙で、あまり話をする印象がありませんでした。しかし会ってみると、まったく別人のように変わっていました。よく喋り、よく笑う。人間はこんなにも変わるものかと驚きました。

翌日、土屋から「来週また会いたい」と連絡がありました。昼間に会い、コーヒーを飲んでいる時、土屋が切り出しました。「一緒にやろう。ただし、一従業員としてではなく、俺と同じ立場で、同じ目線で、覚悟を決めてやってほしい」

こうして私は、株式会社Bridgeに参画し、ファイナンシャルプランナーとしての新たな一歩を踏み出しました。

保険募集人は星の数ほどいます。しかし、介護の現場を長く経験した募集人は少ない。相続案件において、形式的なセールストークではなく、本当に人生の終わりから逆算したライフプランニングや相続、保障について、心から寄り添って考えられる募集人はほんの一握りだと自負しています。

日本人は投資やお金の運用に対して無頓着です。最近は少しずつ広まってきましたが、正しい投資の知識を広めることは社会貢献だと、土屋と二人で強く思っています。投資は悪いことではありません。リスクはありますが、動かないことが一番の停滞です。挑戦する背中を押し、人生100年時代を豊かに暮らせるようサポートすることが、私たちの使命だと考えています。

現在
髙橋亮輔
髙橋 亮輔
株式会社Bridge ファイナンシャルプランナー
横浜高校で甲子園ベスト4を経験。高校卒業後は専修大学に進学し、社会人として食品メーカーを経て、介護・福祉業界へ転身しました。高級老人ホームでは20代でマネジャーを任され、10年間にわたり現場と人材育成の両面から「人を支える」ことの本質に向き合ってきました。

そして今、さらなる成長と挑戦を求めて新たなフィールドへ。自分自身の可能性を広げ、家族や仲間、関わるすべての人の幸せにつなげたい――その想いを胸に、株式会社Bridgeに参画しました。

これまでの経験を土台に、新しい業界でも挑戦を恐れず、自らの手で未来を切り拓いていきます。変化を楽しみ、挑戦し続けることで、人と社会をつなぐ"架け橋"となることを目指しています。